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Lulu at Japan
ブルックスが本当に日本に来たわけではありません。
彼女の評判がはるばる海を渡って、日本でも旋風を
巻き起こしたというだけの話です。
本当は「パンドラの箱」試写を見た評論家達の座談会が
掲載された映画雑誌をご紹介する筈だったのですが、
ああなんということか郵便事故で手元に届かないので、
図書館のマイクロフィルムに焼き付けられたブルックスの
面影を代りに提出します。
× × × × × × × × × ×
ブルックスが女優としての才能を最大限に発揮した
パプスト作品、「パンドラの箱」(1928)「淪落の
女の日記」(1929)はすこし時を置いて1930年
(昭和5)春に日本でも公開されました。
ただし検閲の手にかかって風紀壊乱となりそうな
シーンはすべてカットされてしまい、判じ物のような
映画になってしまったようです。
たとえばシェーンを殺してからその息子のアルバと
仲良くなるシチュエーションなどはカット等で親子関係
をぼかされました。
それでもブルックスの魅力に惹かれて「キネマ旬報」
などの映画雑誌は座談会を開き礼賛の詩を掲載し表紙を
ブルックスで飾るという熱狂ぶりでした。映画雑誌のみ
ならず総合誌の表紙にも見受けられますから、昭和初年
の彼女はまさに時代の尖端をゆく女だったのです。
大阪時事新報 昭和5年4月25日
道頓堀の弁天座で「パンドラの箱」封切り。
川端康成の「淪落の女の日記」評
「淪落の女の日記」は、乱れた家庭から感化院に入った
娘がナイトクラブ勤めなどを経て更正するストーリーで、
社会派のパプストらしい重苦しさが漂う作品です。
華やかなカタストロフを伴う「パンドラ」ほどの人気は
当時でさえも得られませんでした。
昭和5年4月21日付けの大阪時事新報に、川端康成が
映画随想「淪落の女の日記」を寄せています。当時、新感覚
小説の旗手で映画ファンで知られた川端はこの映画を
どう見ていたのでしょう。
第一に傑れてゐるのは、云ふまでもなく、性慾描写である。さういふ場面といふものは、技巧的であればあるほど、誇張的であればあるほど、見る者は一種の余裕--つまり、美しい演戯と感じるのであるが、パプストとブルツクスの場合は、秘密の私室を覗くやうに感じさせるほど、なまなましい本能の姿である。芸術の描写の限界線を一歩踏み出してゐて、一種の不快を感じるほどである。痴呆の沼である。
性欲描写が第一にすぐれているというのだからブルックスの
面目躍如ですがブルックスが聞いたら「先生たら私の演技は
見てなかったのかしら」と怒り出しそうです。
いつたい、この映画全体が痴呆の沼である。主要人物で十人並な顔つきをしてゐるのは、ルイズブルツクスのテイミアン一人だと云つていい。その彼女も魂を失つたやうな表情をする。その他の人物は殆ど皆、痴呆の顔と奇怪な姿とを持つてゐる。呆然と突つ立ち、呆然と歩む。その得体の知れないものが、見てゐるうちに、思ひつきの戯画ではなしに、傑れた性格描写と感じられて来るのだ。
痴呆痴呆と何度も言っています。しかもブルックスを「十人並
な顔つき」と言っています。しかしすぐに「この痴呆の沼は
パプストの『変態的な神経』が生み出した、すぐれた性格描写
である」と言っているので、川端康成が貶し放題に貶していた
のが、実は褒めるための技巧であったことが分かります。
ストーリーに関しては川畑は一顧だにしていません。
「筋と、それに含まれた道徳は新しくない」と書いています。
しかし、それもまたパプストの非凡な表現力を褒めるための
反動的言辞です。
パプストの神経は、簡単なテエマ物を嫌つた。従つて散漫である。それだけに、特異な表現を生かした。現実よりも現実的に感じられる非現実的な表現は見るに価する。
まどろっこしく曲筆して結局は性欲描写を褒めているあたり、
爽快な短いショットを重ねて綴った同じ年(昭和5年)の
「浅草紅團」と同じ作者とは思えません。
「国際写真画報」"The International Pictorial"
昭和4年2月号 - Feb.1929
本文にはブルックス嬢はかけらも出てきません。
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